ステレオタイプ

私が普段よく使う、批判する言葉に
「ステレオタイプ」がある。

誰にでもそんな一面はあるし自分には無いとは言い切れない。しかし、そういった要素を含んだ行動を取りたくないという気持ちが
人一倍あるからこそ、その行動に対する反感が大きいのだろう。

何か物事を押し通したい、相手に強く訴えたい、そういうとき、
言うことは正しくても、その伝え方、やり方が間違っていれば
その意味は無くなってしまう。
正直、正しいことを言うだけなんて、誰だってできる。難しいのは、独りよがりになってしまわず相手と自分の共有化をしながら認識を伝えること。

ステレオタイプには、自分自身が気づかない独りよがりが溢れている。しかも、狭い世界の狭い価値観で物事を見ていることに気づけていない。浅はか。
それがまかり通る世界にいてしまう自分にも嫌気がさしてしまう。


小学生の時、いつも先生に怒られてばかりの男の子がいた。その子は周囲にもすぐバカにされ、その子自身もバカキャラになっておどけた行動を自らとるようになっていった。そういう風な具合だから、みんなその子に接する時はいつも無意識に上から目線、かける言葉も乱暴で、扱いも雑。
よくあることかもしれないけど、私はなるだけ平等に接するよう心掛けてた記憶がある。

中学生のときもそう。いじめられていた女の子がいた。でもやっぱり、上手くはできなかったけど、自分は出来る限り、他の友達と同じように接したいと思っていた。

根底にそういう思いがある中で、
実際に自分も経験したことがある。
日本の中ではこんなやり場のない感覚にはならなかったであろう。
ずばり、差別だ。


中学生の時、オーストラリアにホームステイに行った。ある日遊園地に遊びに行ったときのこと、アトラクションが終わって荷物置き場の荷物を取ろうとした瞬間、後ろからすごい圧力で背中を押され衝撃を感じた。
オーストラリア人のギャルが、アジア人である私のことを見下して「どけよ」的な意味合いでこういった行動をとったのだ。


そして大学の時、南米ペルーに滞在していた時。韓国人1人、フランス人5人、ペルー人2人と、夜クラブへ遊びにいったときのこと。
私と韓国人の子でトイレにいって、戻る時に、ペルー人の子が私をみて、もう一人の●●は?とフランス人と会話していた。●●のところで彼女がやった仕草はこれ↓

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目尻をつまんで目を細くする。
これもまた衝撃だったし、怒りさえ覚えて、この子としばらく口を聞きたくなくなったし、むしろその子に対して一瞬にして信頼を失った。

ただ、たちが悪いのは、
彼女にはこれっぽっちも罪悪感は無い。


だって、これは私たち日本人が、西洋人の真似をして鼻メガネをつけてカタコト日本語を話す真似をしたり、他のアジア諸国の人たちについて見下したり、アフリカ系のひとたちを黒人と呼んだり、外国人のことを外人外人っていうことと同じなのだから。

外国人。を略してガイジン。
普通に蔑称だよな

東京出身の人がどこか地方に一人で移り住んだ時に、現地の人から心なしにあいつは東人(トウジン)だからー(笑)とかって言われるのと一緒だ(笑)

それはともかく、

本当にたくさんの偏見が日常には溢れている。
住む世界が狭くなればなるほど、それに
気づかなくなる。
一生そこから出ないなら問題無いだろうけど。

ただそんな狭い価値観の中で、
自分が感じた不甲斐なさ、苛立ち、無力感、劣等感を越した気持ちのやり場に
困ることがある。

超えていきたいんだ。






それはここから出る理由の一つでもある。







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