ボランティアとは何者か。

先週ようやく技術補完研修の報告書が片付いた。

研修終了日から3日以内に提出だとやはりバタバタする。私の場合は研修については自己手配で、日程も仕事の休みの日を使って無理ないように入れたので、合宿とかとはだいぶ違って時間とか内容もきついということはなかったが、報告書で求められる文字数が6500~6800字もあるのでそれをまとめるのに一苦労だった。
 
しかしここまでくると刻々と近づいてきた感がある。この間は会社の面談で、退社の日も正式に確認した。更に家や諸々の契約解約や引っ越し、逆に必要なものをそろえたりすることを考える残りもバタバタしそうだなと感じる。
 
私はJOCVの制度を知らない人には「海外のボランティア」と言って説明してきた。だけど、受け取り方によっては誤解を招かざるを得ないなーと最近思ったので、やはり自分の中でずっと呼んでいる、「協力隊」「JOCV」と言うようにした。
 
JOCVは、多くの人がボランティアといって想像するそれとはちょっと違う。
内容は様々なので一概には言えないが、少なくとも私が行こうとしている要請先では、
恵まれない人たちの生活を救う為に必死に井戸を掘るとか、そういったことはしない。
 
学生時代に、ケニアの中長期ボランティアに参加した時に感じたのは、無力感。
気候や居住環境ともに日本とは全然違くて、
過酷な環境の中で日々生活していくのがやっとで、
逆に助けられていた。
 
アフリカに行った協力隊員の職員の方がこう言っていた。
協力隊で人の役に立ちたいとか誰かの為になるとか、これっぽっちも思っていない。
 
「ボランティアなんて、偽善だ」
映画クロスロードでも問いかけはあるもののここがモヤっとしたまま。
 
無償で、人の役に立つことをする。表面は、そうだ。
でもそれは、行動様式を文字に当てはめただけ。
本質は何なのだろう。
 
ボランティアなんだからまずは身近なところで役に立ったら?ということは
サービス業の従業員に対して、「金払ってるんだからなんとかしろ」とか、「サービス悪いな。それぐらいやってくれてもいいだろう」と無茶をいっているようなもの。
 
では何だろう。
 
確かにそうなのだ、そうなんだけど、違うんだ。
 
 
ボランティアとは、
利害関係がない人同士の交流
ではないだろうか。
 
 

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利害関係がない人同士が交流することは、価値がある。
 
いかにそれが普段の社会の中で難しいことであるか。
 
そして、いかに求められているか。
 
 
人間は生きていくうちに何らかの所属に縛られ、上下関係、支配者と搾取される側に分かれる。これは、生きていく上で仕方ないことである。
 
だけどボランティアといえば、身分は関係なくなる。
 
ボランティアは、行動でなく、スピリットである。
組織や立場にとらわれず、いち人間としてどうするかが問われるから。
 
 
 
高さ1000mのところから物事を見ている人には気づけないだろう。
 
私は、ニュートラルな目線で物事を見ていきたい。